昭和48年08月20日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の云うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の云うことは道に落してしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
神の一言は、千両の金にも替えられぬ、有難く受けて帰れば、土産は舟にも車にも詰積めぬほどの神徳がある、御神徳を受ける様々な生き方があります、この三十四節に頂きますと、話を有難く頂いて帰ると言う事、御教えを有難く頂いて帰るというか、神様が右ぞと仰る、左ぞと教えて下さったら、それを有難く受けていくと言う事。そういう成る程、此の方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かるとおっしゃるけれども、話を聞いて徳を受けるという道だと言う事、それは話を聞いて徳を受ける。
その徳におかげを頂く、だから又話を聞いておかげを頂く、そのおかげが積り積もって徳になると云う事も云える。お話を頂いてね、金光様の御信心は、お話を聞いて成る程だと、有難く頂いて帰ってもそれがおかげになる、成る程親先生が仰る通りだと云う様におかげを受ける、成る程親先生まかせになっとけばおかげを受ける、と言う事はもうそのまま、そのおかげが積り積もって愈々神様を信ずる力が生まれてくる、そこから成る程お徳が受けられると言う事。
話を聞いて助かると言う事は、話を聞いて徳をうけれる道だと言う事を今日私は感じます。昨夜の御祈念のあと、熊谷さんがお参りになりまして、子供さん達が皆んなお盆歩きに来とるのが帰りました、その出ようとしとる所に、ある人が尋ねて来てから「お宅の屋敷を、わけてやるという話を聞きましたが、ご相談が出来んでしょうか」と云うて、あなたどこの方ですかと言うて、知りもせん方が、そう云うて尋ねて見えたと。
娘さんが居られて、所謂いほこさんの事縁につかれて、お一人になられたから、もう屋敷を出られると、誰がそんな事云うたですかと云うて、いやそれは誰と云う事はないけれども、ちゃんとこう聞いて来たと言う事を聞かれて、熊谷さんが思うて居られる事なんです。成る程是が信心がなかったら、子供達はご用の関係で、大阪の方へご長男が行っておる、娘さんたち達はみんな縁について、最後にいほこさんが、親子二人で過ごしておったが、良縁をえて結婚された。
ですからもう70幾つになられるそのおばあさんが一人なのですから、だから世間ではそう云うだろう、やっぱそう思うだろう。あそこもいほこさんが縁につかれて、あれだけ広いお屋敷きだから、あそこへ行けゃ相談が出来るかも知れんという風に思いこんでそう云う話があっとるのかも知れん。所が先生私に取ってはもう全てが願いが成就していっておる事ですから、最後の娘をやった時でも、ひとっつも淋しい所か、心賑やかに毎日過ごさせて頂いておる。
しかも自分の自由勝手に信心の事が、出来ると言う事がもう一番有難いと思うておる。すぐ吉井に娘さんが大きな病院に御縁に行っておられますから、もう頼む様にして家に暫く、長男の則郎が帰る迄おっといて下さいと云われる、けれども我で言い張るのではなくて、一人の方が有難いのである。もう神様と二人で自分のいい様にそれこそ、自分の思う通りの信心が出来る事が有難いのである。子供達が皆んなおかげ頂いて、助かってしかも願い通りのおかげを受けて行っておると言う事が有難いのである。
あの人達がおらんごとなったから、淋しいという気持ちが更ない、私はもうお徳を受けておられる証拠だと思うですね、心が賑やかだと毎日が却ってその方が有り難い、願いが叶うて居る、云うなら良縁を得て子供達が嫁入って行ったり、又はお仕事の事で大阪の方へ行っておる、お願いしてからの事であるから、どうして私がこんな年になってこんな大きか家に一人で住まにゃんじゃろうかなんてものは更々ない。
これはもう本当に実感だと思う、それこそ20何年間朝参り、夜参りなさる、もう御理解を頂く事が楽しみ、もうどれだけ御理解を、自分で書き写されたのが、これはもう家の宝と言う様に書き貯めておられる。もうそれこそ今どうでしょうか、人の事の為に沢山お初穂を、毎日なさっておられます、自分の周囲の難儀な方達の為に、一生懸命願っておられる、もうそれが唯一の楽しみ、淋しいとか、自分はこの年になって一人で暮らさにゃならんと言う事が、不幸せとか云う事ではなくて。
それこそ自分の様な幸せなものがあろうか、と幸せを実感しておられるというのが、私は熊谷さんの日々ではなかろうかと思うのです。お届けをされお願いをされるその事から、成る程日々話を頂いてその話の、話を頂いて願いが成就して行くたんびに。だから徳を受けていかれたという感じが致します。最後に心の内を改める事が第一なり、神に一心とは迷いのない事ぞ、神に一心とは迷いのない事と同時に、日々の改まりと言う事にもです、一生懸命精進していかねば。
金光様の御信心は、話を聞いて助からねば、話を聞いて助かったら、それが一つ一つ徳を積み上げていく事になる、ひと徳積まにゃと云うて、例えば沢山のお供えをしたとか、人の真似の出来ん様な修行をしたかと、云う様な事も成る程、徳を受けていくお道に違いありません。けれども金光様の御信心はもう日々がそうです、日々御理解を頂く事によって、新らな日々として、所謂嬉しう楽しう賑やかに、日暮らしが出来るというおかげ、話を聞いて助かる。供達の事でも、問題の事でも一つ一つお取次ぎを頂いて。
お願いをして御理解を頂いて、御理解に基づいてのおかげを。云うならばここ20数年の、熊谷さんの信心から云わば願い通り、いや願い以上に次々とおかげを頂いてきておられるという事は、20数年のそのおかげの蓄積が、そのまま徳の蓄積になっておると感じずにはおられない感じです。世間では、成る程淋しゅうあんなさるだろう、困りなさろう、もう子供さんの所に行きなさるじゃろな、違わんあそこの家屋敷は売りなさるばい、と云う様な。まあ風評があっておるのだろうと思いますとこう云う。
所が実際は私の心はそれとはぜんぜん反対です、そげなだんじゃない心賑やかに過ごさせて頂いておる、自分の思う様に信心が出来る事が、只有り難いそれが唯一の楽しみである、しかも自分の周辺の難儀な人達を見たり聞いたりすると、もうその都度都度に、その沢山な人達のお初穂を包まれては、それを願っていかれるのが、最近楽しみの様な感じです。あの沢山なお供えしよんなさいますとはね、みんな他所の人達の事ばっかりです、本当に有り難い。
皆さんが日々お話を頂いて、そしてそれをそんならおかげにしていかなければ駄目です、だからお話を行じなければ、いわゆる御教えが身についていかなければなりません、そして、おかげを成る程、親先生まかせでおかげを頂いておるというその蓄積がそのまま徳になる、私は今日はそこんところを強く感じた。神の一言は千両の金にも替えられん、有難く受けて帰れば土産は舟にも車にも積めぬほどの神徳がある、有難く頂いて帰ればそれはもうそのままが神徳になる。
いや有難く頂いて帰れば、必ずおかげになるという事なんです。だからおかげを受けてそれがそのままお徳の蓄積になって行く、勿論その様な信心が続けられて行くところにです、勿論改まる事が第一とか、一心の迷いがないという信心はおのずと出来てくるでしょう。昨日の朝、御理解を頂いておった事を、最後の締めくくりを申し上げにゃんならんと思うて居ってから、忘れとってから、あとで聞いて頂いたんですけれどもね、皆さんに「なる堪忍は誰でもする。
ならぬ堪忍するが、真の堪忍」これが普通の信心のない人達の考え方、だから、それこそ、血の涙のでるごと、グウグウ云うてこらえんならん、さあこれが真の辛抱じゃと、そういう辛抱をして、おかげになるだろうか、徳になるだろうか決してそうじゃない、自分の心を痛める位の事です。心気病むぐらいな事です。金光様の信心を頂いてどういう難儀な問題があっても、お取次ぎを頂く御理解を頂くと、ほんなごと辛抱どころじゃないこれはむしろ、この様にして神様がお育て下さっておるんだ。
この様にしてめぐりのお取り払いを下さっておるんだ、この様にして私の信心を育てて下さるんだ、といういき方になってしまうんですからね、金光様の御信心は、いわゆる辛抱のいらない日々、腹の立つとば、こらえんならんと云った様な、それは場合によっては、2日も3日も一つの問題が心の中に、どうもさばけないような場合もありましょう、けれどもそれをさばかせて頂く事の為に、精進するさばかせて頂く事の為に、御教えを受けるのですから。
もう今日の御理解頂いてサッバリしましたとこう言う事になってくるでしょうが、皆さんの場合、日にちが経つに従ってあきらめたと云うのじゃないでしょうが、その都度都度に心がさばけていくでしょうが、そういう何十年間を積み上げていくのですから、お徳にならない筈はない。本当に金光様の御信心は、お話を有難く頂いて帰っておかげを受ける、そのおかげが一段一段積み上げていく徳の蓄積に成程しの信心、まあこの辺にもお道の信心の、独壇場を今朝ほどから私は感じましたですね。
どうぞ。